村上 紋四郎
「村紋」こと」村上紋四郎
慶応元年 ( 一八六五 ) 八月、村上紋四郎は宮窪に生まれた。
父親は村上伊勢吉で福田の出身であるが、 宮窪村の徳丸リセと結婚したため、 宮窪に住み農業を営んだ。 本籍地 ( 宮窪村大字宮窪甲二、一八八番地の内第一 ) には、 現在も屋敷が残されている。
紋四郎は、 戸代部落で私塾を開いていた僧のもとで勉強した。 その後、 家業を助けて働いた。
明治二十二年 ( 一八九〇 ) 、 地方自治制度の実施に当たり、 村役場書記であったが、 選ばれて宮窪村初代村長となった。 年わずかに二十五歳であった。 以来、 七期約三十年間、 その職を全うした。 また、 宮窪村漁業総代にも推され、 後に漁業組合頭取に選任された。
明治二十五年 ( 一八九二 ) 県会議員に初当選した。 二十七歳のときである。 それより、 当選すること九回、 長い間、 県会議員も努めた。
明治二十九年 ( 一八九六 ) 七月、 漁業法の実施に当たり、 燧灘漁業問題の解決に努力し、 瀬戸内海漁業問題に関して手腕をふるった。 また、 県漁業組合長や顧問など歴任した。 それらの功績が大きかったため、 日本水産会総裁小松宮彰仁親王殿下、 伏見宮貞愛親王殿下より表彰された。
大正十年 ( 一九二二 ) 今治中学講堂の落成式当日、 県の代表や地方の有志の方の祝辞が多く、 生徒は無味乾燥な話に居眠りをする者が多かった。 ところが、 紋四郎が壇上に立ち、 祝辞演説を始めると、 その語調と流暢な音声に、 生徒たちはたちまち目をさまし、 目を見張り耳を傾けて聞き入ったという。
大正十二年 ( 一九二三 ) には衆議院議員になり、 それから三回も続いて当選した。 中央政界に確固たる地位を占め、 民政党愛媛支部長となった。 全盛期には、 愛媛県には知事が二人いるという評判がでたそうである。 もうひとり ( 影 ) の知事が紋四郎であったことは、 県政面に明瞭に現われていたそうである。 それほどの政治的実力者であるとともに、 前述のごとく演説の神様であった。 演説を武器として、 村・県・国とそれぞれの政治において、 聴衆を魅了し人々を動かしたのである。
昭和八年 ( 一九三三 ) 今治市長に就任し、 県下六市に先んじて水道を敷設した。 水道の先駆者でもあった。
何事にも常に信念を持って貫き通し、 村長、 市長、 県会議員、 衆議院議員と、 一生を政治に捧げ尽くし、 数々の偉大な功績を残した。
昭和二十年 ( 一九四五 ) 一月、 八十歳で没した。
宮窪町誌 平成6年3月発行