自民党衆議院議員 村上誠一郎

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村上家紹介

村上 信二郎  /  村上誠一郎の父

「信二郎旋風」を巻起こして最高点当選

大正七年(一九一八)十一月二十七日、父の任地広島市において村上常太郎・正子夫妻の次男として生まれた。大正十五年四月、父の任地であった広島市の千田小学校に入学した。広島県立第一中学校から東京府立第四中学校へ転校、第一高等学校を卒業した。昭和十六年(一九四一)東京帝国大学法学部に入学し、昭和二十年九月、卒業した。

昭和二十一年三月、内務省幹部官吏採用試験に合格した。昭和二十二年五月、香川県経済部商工課長に就任し、官界へのデビューを飾った。昭和二十三年六月、高等文官試験行政科に合格した。昭和二十四年五月、通産省に転じ、更に翌昭和二十五年十一月警察予備隊本部長官秘書官に転じた。

昭和二十六年、香川県琴平町の素封家安達健・理子夫妻の次女美智子と結婚した。昭和三十二年五月、アメリカ合衆国ジョージタウン大学院に留学し、世界政策・軍政学ならびに地政学を専攻した。昭和三十三年六月、フランス、スウェーデン、ドイツ、イタリア等を歴訪した。妻美智子の語るところによれば、このころが公私共に最も充実したよき時代であったという。

昭和三十九年八月、防衛庁装備局調達補給課長となり、昭和四十一年八月、防衛庁長官官房審議官、兼内閣総理大臣官房審議官となった。この間にわが国防衛の基礎を築き、同年九月官界を去った。

昭和四十二年一月、第三十一回衆議院議員選挙に愛媛第二区より「先憂後楽」の政治信条を掲げて初出馬した。いわゆる「信二郎旋風」を巻起して最高点当選を果たした。昭和四十四年四月、総理大臣代理として、南太平洋戦没者慰霊祭に、グアム、サイパン諸島に派遣された。同年十二月、第三十二回衆議院議員の選挙に当選し、衆議院内閣、大蔵、決算各委員ならびに大蔵常任委員に選ばれ、目ざましい活躍をみせた。

昭和四十七年八月、惜しくも病に倒れ、不帰の客となった。享年五十三歳であった。生前の功績により従四位勲三等に叙せられた。

終わりに、友人の信二郎評を掲げ人柄を偲ぶこととする。

  • 学生としてやらなくてはならないことはやり遂げるという信念から、学業半ばの学徒出陣の折、単位を全部取っていた。純粋な行動型であった。

    (公正取引委員 後藤英輔)

  • 大胆にして細心、将来に対する確然たる展望の下に方針を打ち立て、それを貫きとおす人だ。また、部下や後輩を非常に可愛がった。部下からみて、彼ほど温かな頼りになる人はいなかった。

    (防衛庁技術研究本部課長 中村成男)(『村上信二郎回想録』)

宮窪町誌 平成6年3月発行